明日はどちらかと言えば雨でしょう
10 時起床。 あいかわらず良く眠れる。 執事と先月の給与の端数をかけたチェス。 20 分プラス 1 手 10 秒のフィッシャー式、 黒番、シシリアン・ディフェンス。変化はドラゴン風味。 序盤であちこち間違えてかなり指し難い中盤。 B 対 N エンドゲームに持ち込めればチャンスがあるかな、 くらいに思っていたら、相手のブランダーのおかげで、 バックランク・メイトがらみのコンビネーションが成立し、 1R 取って勝ち。 またしても今年度の無敗記録を伸ばす。
昼食は納豆パスタ。 散歩がてら、知事選の選挙投票に行く。 午後は講義の予習。 夕食は茹で豚と味噌汁の一汁一菜。 夜は、後でちょっと真面目に読もう、 と思って残しておいた、 「統計学を拓いた異才たち」の最終章を読む。 本当のところ統計的推測とは何であるのか、とか、 確率とは何か、と言う疑問は、非常に深淵な問題である。 もちろん、確率論の(数学的)研究者としては、 コルモゴロフ流の公理から導かれるものだけが「確率」であって、 数学としてはそれ以上のことを問わない。 そういった哲学的な問題を切り捨てたことによって、 数学として成立して、数学として発展したのであるから、 そういうことを問うべきでもない。 しかし気になることは気になる。
むしろ経済学で有名になった、カーネマンとトヴァスキーの研究によれば、 人間の判断はサヴェジ流の「個人的確率」の一貫性条件を満たしていないし、 ほとんどの人は異なる値の確率の意味することについて、 一貫した見方を持ち続けることすらできない。 カーネマン=トヴァスキー的にふるまい、 かつコルモゴロフの公理系を満たし、 さらに一貫性条件をも満たすモデルは存在するが、 自明過ぎて興味ある数学にもならないし、有効な統計的推測もできない。 スッペスによって指摘されたそのようなモデルでは、 「きっと正しい/間違っている」「どちらかといえば正しい/間違っている」 「正しいか間違っているかは同じ程度」 の以上 5 種類の「確率」しかない、 と言うのだから。 確かに、我々はこの程度の判断で生活しているような気はする。 天気予報は、「明日はきっと雨です」とか、 「明日はどちらかといえば晴れでしょう」とかでいいんじゃないだろうか。 60パーセントと75パーセントと90パーセントの降雨確率の差はなんなのか、 5パーセント棄却域で棄却した仮説検定の意味はなんなのか。 煙草を吸うと癌になりやすそうだ、と言うことをどう科学的に述べ、 何を示せばよいのか。
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