撤退戦
昼食にアスパラガスのパスタを作っていたら、 執事がふらふらしながら家にやって来る。 執事は、 私の家のすぐ近所のゲームソフトウェア会社で働いているプログラマで、 私の雑用(ゴミ出しとか、ハウスキープとか、留守中の猫の世話とか) をすることと引き換えに、 格安の家賃で我が家の二階の隅の一室を占拠している青年である。 それはさておき、最近あまり見かけないのは、 トラブルが燃えさかっているラインに助っ人として放り込まれて、 地獄の日々が続いているせいらしい。 すぐに仕事場に戻るところを引き止めて、 昨日あけたシャンパンの残りを一杯ごちそうする。
「戦況は?」 「もう、どうやって撤退するか考えているところです」 「撤退戦が一番難しい。そもそも人生とは一個の撤退戦なのだよ」 と、とっておきの英知を授けてやったのに、 「人生の最初から撤退してるのは博士だけですよ…」 と捨て台詞を残して、また戦場へと帰って行った。 そうではなくて、誰の人生も所詮、負けることが運命づけられたゲーム。 全ては奪い去られる宿命なのだが、 その撤退戦において如何に被害を最小限にとどめ、 如何に虚しい宿命を雄々しく闘い、 如何に美しく敗北するかが、問題なのだ。 言い代えれば、負け試合を楽しむことが人生の目的だ。 クリケットの試合は一ゲームに数日かかるので、 負けが事実上確定しても、まるまる何日も試合が続行されることがある。 そのときにこそ、誰が本当の紳士であるか、 そして真の強さとは何かが分かるのであり、 それはスケールの大小こそあれ何でも同じなのだ。 まあ、後十年ほどして私くらいの年になれば分かるだろう。 その後ろ姿に合掌。
午後は講義の予習と読書など。 「コカイン・ナイト」(J.G.バラード著/山田和子訳/新潮文庫)。 バラードって世界の終わり症候群の SF 作家だと思っていたら、 いつの間にか現代文学のカリスマみたいな扱いになっていてちょっと驚き。 妹から何やら宅配便。 開けてみると、上海旅行のお土産だと言って、 上海スターバックスの T シャツ … うーん、相変わらず謎めいた趣味。未だにもう一つ良く理解できない妹だ。 夕食には肉じゃがを作った。 夜はチェロの練習。バッハのメヌエットとか。 難しい曲が弾けないものだから簡単な曲を、と思うのだが、 簡単な曲を音楽らしく弾くのも結局、同じくらい難しい。
<< Home