Monday, September 11, 2006

ガラスの文鎮

今日はいくらか涼しい。一雨ごとに涼しくなるようだ。 家で論文書き。 今週は京大で確率解析の日独シンポジウムが開催されているが、 参加申し込みを忘れていたのと、 締切までに論文を書く方が優先なのでサボり。 流石に木曜日の、 伊藤先生のガウス賞受賞の伝達式とその記念講演だけは行くかな。 昼食はカルボナーラと、トマトとオクラのサラダ。 午後は集中的に仕事。 夕方、近所のワイン屋に、 注文していたシャンパンを受け取りに行く。 夕食は肉玉若布饂飩。
明日の夜は会食があるので、更新は深夜です。

うーむ、やはり、カポーティの文章は凄い。 天才と言うのはこういうものだろうか。 エッセイのカポーティは、小説のカポーティとも、 ノンフィクションのカポーティとも違うのだが、 文章が凄い、と言うことだけは同じだ。 あざとさのぎりぎり手前で止まった比喩と言い、 一瞬意味が取れないのだが、 良く良く考えるとああそういうことか、と、 その努力に対して人生の小さな秘密を授けられたような、 または、 ビリヤードでわざと難しい所に運んだ玉を華麗なショットで最後に落とすような、 ねじれたロジックと言い、他の誰にも真似できない文章を書く。 例えば、パリでコレットに会ったときのことを書いた、 数ページほどのエッセイ「白バラ」など最高だ。

「つまりそれは、作られたアイデンティティの限界、 他人に押しつけられた分類を、 知覚することも容認することもできないという危険、 その宿命である ― 自分が犬であると信じこむ小鳥、 自分が絵描きであると主張したヴァン・ゴッホ、 自分が詩人であると主張したエミリー・ディキンソンのように。 だがそのような誤解と信念がなくても、 海は眠るだろうし、万年雪は足跡に汚されないままだろう」 (「ローカル・カラー/観察記録」(T.カポーティ/小田島雄志訳/早川 epi 文庫)、 著者による序文より)。