Tuesday, September 18, 2007

天井の疑問

寝坊。でもまだ間にあったので、ゴミ出し。 激しい日差し。今日も暑そうだ。 元執事からメイル。持つべきものは、良い従者だな。 返事のついでに学会出張中の猫の世話を頼んでおく。 昼食は自宅で茄子と長葱のアーリオ・オーリオを作り、 ヴーヴ・クリコ(1998)のハーフボトル。 一昨日、友人夫妻御一行から頂いたもの。多謝。 クリコの残りを飲みながら、 先日購入した V. ウルフの「ダロウェイ夫人」(丹治愛訳/集英社文庫)を読む。 確かにイギリスの街には人生の幸福が凝縮したような春の朝がある。 絵の具のような空の青と、二階建てバスの赤をその中に閉じ込めた、 薔薇の葉の上に震える雨の雫のような。 夕食も自宅で。食べるものがなかったので、 冷凍の王将餃子二人前を焼いて食べた。 夜は先月買っておいた、自分には明らかに贅沢過ぎる赤ワインを一人で飲み、 キチンの換気扇の下に椅子を運んで、一本だけ煙草を吸った。

溜息をつき、天井を見上げることが一日に何度かある。 天井にはなにもない。自分の人生にもなにもないかもしれない。 これで、良いのだろうか、という疑問が、天井に書いてあるわけでもない。
これがしたい、あれがしたい、と考え、
しかし、それができてしまったあとは、何をするのか?
そのシミュレーションができるようになる、
それが歳をとったということだろう。
想像ができないことなど、何一つないのだから。
自分がどれくらい喜ぶかも、
自分がどれくらい落ち込むかも、
すべて予測可能。
もう、それだけのデータが、これまでの人生で揃ってしまったみたいだ。 あとは、僅かな修正を繰り返していくだけだろうか。 このさき、今までになかったような悲しみも、 かつて経験のないほどの喜びも、もう味わえないような気がする。
だが、それで良いではないか。

「四季 秋」(森博嗣/講談社)より

「百年後の未来」© HARA, Keisuke 2007