初老を迎えて
「人生論ノート」(三木清/新潮文庫)所収、「幸福について」より。
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。 もちろん、他人の幸福について考えねばならないというのは正しい。 しかし我々は我々の愛する者に対して、 自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為しうるであろうか。
愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのでなく、 反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。 日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、 あらゆる事柄において、幸福は力である。 徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。
…(中略)…
幸福は人格である。 ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることができる者が 最も幸福な人である。 しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、 捨て去ることもできない。 彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。 この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。 幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、 幸福はつねに外に現われる。 歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、 単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。 幸福は表現的なものである。 鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
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