デュシャン、マン・レイ、ピカビア
10 時起床。ちょっと寝過ぎかな…ほんの 10 時間ほどとは言え。 しかも宅配業者に起こされなかったら、もっと寝ていたかも。 amazon からイタリア料理のテキストが 4 冊ほど。 珈琲を飲んでぼうっとしている内にもう昼食の支度の時間。 トマト煮込みを煮返して、卵炒飯と。 食事のあと、教務委員の仕事ですぐにキャンパスへ。 履修要項の最終校正など。 ちょっと分からないことがあって A 堀先生を数ファ研に探しに行くと、 K 大の若手確率論研究者たちがたむろしていた。 何故に、と尋ねると、うちの院生のゼミを見てもらうらしい。 ここの確率論教育は充実してるなあ… 彼等になら僕がゼミを見てもらいたいくらいだ。 他、いろいろ用事を済ませて夕方に帰る。 夕食は、パテ・ド・カンパーニュを食べたあとスパゲティを茹でて、 菜の花と茹でソーセージのスパゲティ。
Susan Polgar の blog で、 デュシャン関連の記事が紹介されていた。 その元の記事をたどって読んでみたらなかなか面白かったので、 通勤時間を利用して翻訳してみました。 以下が本文ですが、 注釈なども含めた完全な文書はこちら、 「全ての芸術家がチェスを指すわけではない」 でどうぞ。
「全ての芸術家がチェスを指すわけではない」(**1)
- デュシャン、マン・レイ、ピカビアについてアラン・サヴェイジが語るマルセル・デュシャンにとって、チェスがほとんど全てだった。 彼の友人、アンリ=ピエール・ロシェはこう記している: 「彼は赤ん坊が哺乳瓶を欲しがるように、チェスの良いゲームを求めた」。 チェスは彼の初期の絵画作品 「チェスプレイヤーの肖像(Portrait of Chess Players)」(1911)から、 電子的に施されたチェスボードで 1968 年にジョン・ケージと出演した パフォーマンス/チェス対局「再会(Reunion)」まで、 彼の芸術のキャリアを通じてのテーマだった。 彼はチェスのコンセプチュアルな性格と完全な無目的性を愛し、 マン・レイとフランシス・ピカビアもこれらの側面に惹かれていた。 この三人は皆、子供時代にチェスを習い、生涯を通じてその情熱を分かちあったのだった。
デュシャンは 13歳だった 1900年に兄たち、 レイモンド・デュシャン-ヴィヨン(Raymond Duchamp-Villon) とジャック・ヴィヨン(Jacques Villon)にチェスを教わった。 1910 年からキュビズム芸術家のプトー(Puteaux)・グループたちとの 日曜日の対局定例会が始まった。 そこには彼の兄たちも参加していたし、一年後にはピカビアも加わった。 ニューヨークに移ってからは、 デュシャンはアレンスバーグの定例サロンでの深夜のチェスの中心的人物になった。 ここでの彼の対局相手には、 詩人のアルフレッド・クレインボルグ(Alfred Kreymborg, 元チェスのプロ(**2)) や精神分析医のアーネスト・ソウザード博士(Dr. Ernest Southard)、 批評家のウォルター・アレンスバーグ(Walter Arensberg)(**3)などの強豪が含まれていた。
ある人には、チェスは単なるゲーム以上のものらしい。 1917 年に、ピカビアとロシェはそれぞれの新参の芸術雑誌、 ピカビアの「391」とロシェの「盲人(The Blind Man)」 の存続の権利を賭けて対局した。 結果、ピカビアが勝ち、「盲人」は第二号までで廃刊になった。 デュシャンは、疑いもなく、 このグループの中で最もチェスに力を注いだプレイヤだった。 1916 年に彼はニューヨークのマーシャル・チェスクラブ(**4)に加わり、 しばしばマン・レイと一緒に参加した。 「この頃が人生の中で、最も楽しかった」と彼は言っている。 ブエノスアイレスで暮らした 1918 年の数ヶ月には、 彼はトッププレイヤからレッスンを受けていた。 その数年後、1921年にはピカビアに対し、 「私の野望はプロのチェスプレイヤになることです」 という宣言を書き送っている。 そして 1923 年、ブリュッセルでチェス対局に数ヶ月を費した間のこと、 彼は友人のエリー・ステットハイマ(Ellie Stettheimer) にこう決意を書いた: 「私は小国からスタートすることにしました… たぶんいつか、フランスのチャンピオンになろうと決断するでしょう」。
マン・レイは、デュシャンほど恵まれた才能を持ったプレイヤではなかったが (自分自身では三流だと言っていた)、 チェスの物理的な形式を芸術に織り込んだ。 彼は正方形の格子を、 「全ての芸術の基本であり、… 構造を理解し、 秩序のセンスをマスターするのを助けてくれる」ものと考えていた。 彼のたくさんのチェスセットのデザインとチェス盤の写真と同様に (世界チャンピオンのアレクサンダー・アレヒン(Alexander Alekhine) を撮った 1928 年の写真はとりわけ魅せられる)、 マン・レイは絵画や造形の中にこのゲームのイメージを盛り込んだ。 例えば、モビール作品「オブストラクション(Obstruction)」(**5) には数学的に順次配列してぶら下げられた 64 個のハンガーが含まれている。 64 はチェス盤の升目の数である。
ピカビアも時にチェスのテーマを取り上げた。 9 x 7 の格子(**6)を用いた彼の三つの作品 (特に「分子構成(Molecular Construction)」) は、チェスが彼の芸術に与えた影響を表している。 しかし、マン・レイと違って、彼は対局に不可欠な自己規律を持ちあわせず、 自身は理論家のアンチテーゼだった。 彼は「創造的精神」を「音楽家が音楽をするように絵画を即興する」 のに用いることについて語っている。 この言葉はチェスにおける創造性の表現と類似している: チェスプレイヤと音楽家はしばしば同じく、 主題、テンポ、調和(ハーモニー)、理論、作品(composition)、 モチーフ、問題(Problem)、そして直観について語る(**7)。
この三人の芸術家の中では、 デュシャンがチェス界でのごく薄い成功を達成するだけの 最も高いモチベーションを持っていた。 彼は自分を律することができ、かつ自己耽溺的だった。 彼は何時間も何日も一人きりで働いて幸せだったが、 これが偉大なマスターたちの対局を研究することを可能にした。 彼はチェス理論を味わい、およそ十年間はセミプロであった。 しかし彼は反復練習することを好まなかった。 これは全てのチェスのプロがある程度までは訓練しなければならないことである。 おそらく、デュシャンは対局の精神的なプロセスを愛し過ぎたのだ ― 彼は厳しい競い合いに必要なフォーカスを持たなかった。 それでも、チェスの繊細さは彼の芸術すべてに見出されるし、 彼の「チェス駒(Chessmen)」(1918)、 「見合いと姉妹升目(**8)はよりを戻した (Opposition and Sister Squares are Reconsiled)」 (1932)と「携帯チェスセット(Pocket Chess Set)」(1943-1944) は、 チェスと言うゲームを称える彼の多くの仕事の中でも、抜きん出ている。
了
(Allan Savage はインターナショナル・チェス・マスター、 チェス・ジャーナリストであり、デュシャン研究家でもある。 アメリカのメリーランド在住。 デュシャンとチェスについての彼の著書が、 Moravian Chess から近く出版される予定である。)
注釈つき翻訳の完全な文書はこちら 「全ての芸術家がチェスを指すわけではない」
<< Home