究極の選択
8 時起床。ゴミ出しをして、目覚しの珈琲。 アイスコーヒーにしてみた。 朝方はまだ暮らしやすいが、今日も良い天気で気温が上がりそうだ。 採点のために出勤。 早めの昼食は生協食堂にて。大蒜の芽ともやしと鶏肉の甘辛炒め定食。 午後一杯、採点に励む。 夕方一段落ついて、キャンパスを後にする。 夕食は御飯を炊いて、鰻丼。ついでに、 ちょっと貧乏臭いが、 余った鰻のたれが勿体ないような気がして、 たれをつけて長葱の串を焼いた。卵の御澄ましも作る。
「暗殺のアルゴリズム」(R.ラドラム/山本光伸訳/新潮文庫)に、 悪魔の組織に変貌してしまった巨大慈善団体が出てくる。 ワクチンを配布すれば何万人と言う子供たちを救えるのに、 嗚呼、なんと言うことだ、 この貧しい小国を私物化している悪徳大統領がそれを許可しない。 このたった一人の邪悪な人間さえ「排除」すれば… まあ、 バフェットかソロスの慈善団体が似たようなことを、 現実に実行してそうな気がしないでもないが、 「神は妄想である」(R.ドーキンス/垂水雄二訳/早川書房) で読んだ倫理テストのことを思い出した。 ハーヴァード大のマーク・ハウザーと言う生物学者が、 「究極の選択」タイプの問題を利用して、 人間の倫理や道徳がどのように形成されたのかを研究しているそうだ。 例えば、こんな問題。
路面電車が暴走していて、
本線の先の線路の上で 5 人の人間が動けなくなっている。
しかし、たまたまあなたが線路の切り替えポイントの所に立っていて、
電車の行く先を本線から待避線に切り変えて、
この 5 人の命を救うことができるとせよ。
ところが間の悪いことに待避線の方にも、
一人の人間が線路の上で動けなくなっているのだ。
あなたは行く先を切り替えて 5 人の命を救うために一人を犠牲にできるか?
第二問。
再び、路面電車が暴走していて、
本線の先には 5 人の人間が動けなくなっている。
しかし今回のあなたは切り替えポイントではなくて、
線路にかかった小さな橋の上にいて、
その橋の欄干に大変太った男が座っている。
電車が通るタイミングでこの男を下に突き落とせば電車を止められる。
あなたはこの男を突き落とせるか?
第三問。
またまた、電車が暴走していて、本線の先では 5 人が動けなくなっている。
あなたは行く先を切り替えるポイントの側に立っているが、
今度の待避線はループになっていて、
5 人の犠牲予定者の直前でまた本線に合流してしまう。
よって、普通なら待避線に切り替えても意味がない。
しかし、
たまたまその待避線の途中で大変に太った男が動けなくなっていて、
この男の重量で電車が止まることは間違いない。
あなたはこの電車の行き先を切り替えられるか?
第四問。前問と同じ設定だが、
今回はループ待避線の方に太った男ではなくて、
大きな砂山があるので安全に電車は停止する。
ところが間の悪いことに、
丁度電車とぶつかるタイミングで、
歩行者がその砂山の少し手前で線路を横断しようとしているのだ。
あなたはこの電車の行き先を切り替えられるか?
こんな調子で、倫理テストは少しずつ複雑に、トリッキィになっていく。 単純化すれば全て、 5 人の命を救うために一人の命を犠牲にできるか、 と言う問題だが、何かが、どこかが違うように思われる。 あるものはやむを得ない選択として許されるように思え、 あるものは許されないこととして抵抗を感じる。 (ちなみに私の答は全て「イエス」だが、 これは意識的、または論理的に考えてしまっているからだろう)。 ハウザーの実験と統計的研究によれば、 これは文化や信仰と関係なく、 意識下のレベルでプログラミングされているのだそうだ。 面白いところは、 今や生物学者が倫理学を研究する時代なのだね、と言うことだろうか。